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2021.04.01 社員のつぶやき

ムヒカ大統領の演説から考える環境問題とは

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2012年6月にブラジルのリオデジャネイロで行われた「リオ+20 国連 持続可能な開発会議」で、「世界で一番貧しい大統領」といわれるウルグアイの大統領ホセ・ムヒカ氏の演説を聞いた時の衝撃は、今も忘れられません。

 そもそも、この会議は「持続可能な発展」と「膨大な数の貧困者対策」を話し合う会議であり、経済発展国を中心とした各国要人の演説がされていたものの、誰一人として明快な答えを出せる者はいませんでした。

 豊かな生活を送る経済発展国にとって、消費経済・市場経済こそが自分達の生活レベルを維持してくれている現状にあっては、そのペースを抑える「持続可能な発展」は足枷でしかなく、また、「貧困者対策」においても自らの生活水準を下げてまで貧困層に富を配れるはずがないのであるから、当然と言えば当然のことでしょう。

 そんな中、参加国の中でも小国であるウルグアイの大統領に注目する人は殆どいなかったのも仕方のないことです。ノーネクタイに決して高級そうには見えないジャケットを着た77歳の老人の登壇は、式典の一つの時間潰しにしか見えなかったのです。

 ところが・・・。ムヒカ氏の演説をご紹介します。

この場に出席されている世界各国の代表の皆さん。ありがとうございます。
お招き頂いたブラジル国民、そして大統領閣下に感謝します。
これまでに発言された全ての方々が表明された誠意にも大いに感謝致します。

一国家指導者として、貧しい人々のための取り決めづくりの一員として共に参加することを表明致します。
しかし、私達にもいくつか声高らかに質問することをお許し願いたい。
本日の午後、私達は「持続可能な発展」と「膨大な数の貧困者対策」を話し合ってきました。

けれど、私達の本音は何でしょう?今の発展を続けることが本当に豊かなことなのでしょうか?

質問させて下さい。

もし、ドイツ人が一家族ごとに持っているほどの車を、インド人もまた持つとしたら、この地球はどうなってしまうのでしょうか?私達が呼吸できる酸素は残されるのでしょうか?

もっとはっきり言いましょう。

例えば、最も裕福な西側諸国と同じようなレベルで、70億、80億の人に消費と浪費が許されるとしたら、それを支えられるだけの資源が今の世界にあるのでしょうか?

それは可能なのでしょうか? そもそも別の議論が必要ですか?

今のこの文明を作ったのは私達です。私達は市場と競争社会から文明という落とし子を生み出し、物質面での驚異的な進歩をもたらしました。

そして、市場経済は市場社会を作り出し、それを世界規模に拡大させてしまいました。いわゆるグローバリズムです。そのグローバリズムを、私達はコントロールできていますか?

逆にコントロールされてはいないでしょうか?

こんな残酷な競争で成り立つ社会で、「みんなで世界を良くしていこう」なんて議論が本当にできるのでしょうか?

私達は本当に仲間なのですか?

私は今回の会議を否定するために言っているのではありません。違います。その逆です。

我々が今、挑戦しようとしている目の前の巨大な困難は、決して環境問題ではなく、明らかに政治の問題なのです。人類は今、消費社会をコントロールできていない。

逆に人類の方が、その強力な力に支配されているのです。我々は、発展するためにこの地球にやってきたのではありません。幸せになるためにやってきたのです。

人生は短く、あっという間です。しかし、その人生こそが何より価値があるものなのです。余計なものを買うために、もっともっとと働いて人生を擦り減らしているのは、消費が「社会のモーター」となっているからです。

なぜなら、消費が止まれば経済がマヒしてしまい、経済がマヒすれば不況というオバケが我々の前に姿を現します。しかし、今、この行き過ぎた消費主義こそが地球を傷つけ、さらなる消費を促しています。

商品の寿命を縮め、できるだけ多く売ろうとする。今の社会は、1000時間ももつような電球を作ってはいけないのです。本当は10万時間、20万時間ももつ電球を作れるのに、そんなものは作らない。

なぜなら、我々はもっと働き、もっと売るために、「使い捨て文明」を支える悪循環の中にいるからです。これは政治問題です。

我々は、今までと違う文化のために闘い始めなければなりません。石器時代に戻ろうとは言っていません。このままずるずると消費主義に支配される訳にはいきません。私達が消費主義をコントロールしなければならないと言っているのです。

ですから私は、これが政治問題だと言いました。とても謙虚な思いからです。

かつての賢人達、エピクロスやセネカ、そしてアイマラ人達は次のように言っています。

「貧しい人とは少ししかものを持っていない人ではなく、もっともっとといくらあっても満足しない人のことだ。」と。大切なのは「考え方」です。

だからこそ、皆さんと共にこの会議に参加し、国家の指導者として皆さんと共に努力したいのです。私の発言は皆さんを怒らせるかも知れません。しかし、気付かなくてはなりません。

「水問題」や「環境の危機」がことの本質ではないということです。見直すべきは、我々が築いてきた文明の在り方であり、我々の生き方なのです。

なぜ、そう思うのか?

私は環境に恵まれた小さな国の代表です。人口300万人ほど、いや、もうちょっと320万人ほどしかいません。けれど、世界で最も美味しい牛が1300万頭、また素晴らしい羊が800万~1000万頭。食べ物、乳製品、そして肉の輸出国です。国土の90%が有効に使えるほど豊かな国なのです。だから、かつて私の仲間達は8時間労働のために闘い、ついには6時間労働を勝ち取った人もいます。

しかし、そうなったら今度は仕事を2つ持つようになりました。なぜか?たくさんの支払いがあるからです。

バイクやマイカーのローンを次から次へと支払っているうちに、私のようなリウマチ持ちの老人になって人生が終わってしまう。そして自分に問いかけるのです。「これが私の一生だったのか?」と。

私が言っているのは基本的なことです。

発展は幸せの邪魔をしてはならない。発展は「人類の幸せ」、「愛」、「子育て」、「友達を持つこと」、そして「必要最低限のもので満足する」ためにあるべきものなのです。

なぜなら、それらこそが一番大事な宝物なのだから。環境のために闘うのなら一番大切なのは、人類の幸せであることを忘れてはなりません。

ありがとう。

 

 このムヒカ大統領の演説を聞いて、私が携わっている現在の「廃棄物回収業」、「リサイクル業」というものに、以前から何となく感じていた疑問がより鮮明になったことを感じました。

 私のしている仕事は、社会にとって「なくてはならない」ものとしての誇りを再確認しましたが、毎日毎日、大量に捨てられるごみはもちろん、リサイクルしているとは言えペットボトルや発泡スチロールは「本当に必要な物なのだろうか?」ということです。

「ごみがあるから、おまえの商売が成り立っているんだろう。」と言われればその通りですが、「あるから」であり、なければ違う商売をすればいいことだと思うのです。

 私の会社では、「もっと、ごみを出して。」と思っている者は一人もいないと思っています。むしろ、社員全員が私と同様に「こんなにごみが出ていて、日本は大丈夫なんだろうか?」と日々疑問を感じながら仕事をしているはずです。

 なぜならば、ごみの中には、まだまだ賞味期限が残っているものや、ほんの少し傷んでいるだけ、或いは包装が汚れているだけのものだらけだからです。

 また、リサイクルにしても同じです。

 例えば、ペットボトル。使用されたペットボトルは最大限有効にリサイクルするように企業努力をしていますが、そもそも、ペットボトルがこんなに必要なのでしょうか?

 私が子供の頃は、醤油は空の一升瓶を持って買いに行きました。
 出かける時は、水筒を持って行きました。
 洗剤も粉状で、紙の箱に入っていました。

 いつでもどこでも持ち歩ける、軽くて丈夫等々のメリットは少なからず私も享受はしています。しかし、ムヒカ大統領が述べた通り、「消費主義こそが地球を傷つけ、さらなる消費を促す」、「我々はもっと働き、もっと売るために、「使い捨て文明」を支える悪循環の中にいる」の典型と言えるのではないのでしょうか?

 3RReduce(発生抑制)、Reuse(再利用)、Recycle(再資源化)という言葉をもう一度思い返すと、Reduceが最も重要だと思うのです。

 必要最低限のもので済ませ、それを何度も使えば、ごみも最低限しか出ません。

 また、環境分野でアフリカ人女性として初のノーベル平和賞を受賞したケニヤもワリンガ・マータイさんが言った「もったいない」(MOTTAINAI)は、あまりにも有名ですが、この言葉は彼女が考えた言葉ではなく、元々我々日本人が使っていた言葉であり、かけがえのない地球環境対する「Respecut(畏敬の念)」が込められていることを思い起こすべきではないでしょうか?

 ちなみにムヒカ大統領は、大統領になってからも公邸には住まず自宅の農場から自ら車を運転して国会に通い(友人にもらった中古のフォルクスワーゲンを10年以上乗り続けている/奥さんから帰りに買い物をしてくるよう頼まれるのもしょっちゅうらしい)、給料の9割を貧しい人々に寄付し、月10万円程度で暮らしているので「世界で一番貧しい大統領」と言われています。

 それでも、彼は「毎日農作業をし、家畜の世話をし、空腹を満たすだけの食事と少しのお酒があれば、充分に幸せだ。」とも言っています。

 消費することで経済が回っていることは誰も否定はできません。しかし、消費が地球環境を悪化させていることを知らない人もいません。

 人間は、物に囲まれ便利な生活が幸せだと思っているため、また、自分に直接何らかの被害が及んでいないため、今のこの生活を変えようとはしないのです。

 でも、現実は世界のどこかで廃棄物で汚れた水しか飲めず命を落とす人、先進国で使われる希少な資源を採取するために過酷な環境下で命がけで働かなければならない人、ビニール袋を飲み込んで死んでいく魚や海洋動物がたくさんいることを忘れてはいけません。

 ムヒカ大統領の言う「私達が消費主義をコントロールしなければならない」をもう一度考えてみたいと思います。

 消費経済を抑制しつつ、不況にならない方法はあるのか?
 ビニールやプラスチックをあまり使わないで済む方法はあるのか?
 大量生産、大量消費、大量廃棄を改める方法はあるのか?

私には妙案が浮かびません。しかし、「不便」ということに重大なヒントがあるのではないかと思います。

 例えば、先程述べた醤油の一升瓶のように、身体の不自由な人やお年寄りにはペットボトルのものを買ってもらうけれど、一般の方には「不便」でも詰替え用の一升瓶を使ってもらうとか、自動販売機やコンビニで気軽にペットボトルを買わないとか。

 つまり、ごみを出さないために「不便」を「当たり前」と思うこと。「ごみを出さない生活こそが『本当の豊かな生活』なのだ。」と価値観を変えることが必要なのだと思うのです。

 余談ですが、私の妻はお風呂の洗剤の代わりに「重曹」を水で溶いたものを使ったり、出かける時はヤカンで麦茶を沸かしたものを水筒に入れて持って行ったりしています。

 今の会社に入る前、麦茶を作っている妻に「出先のコンビニで買えば?」と言った時、「ごみになるじゃない」と言われた記憶が甦りました。

あとの問題は、このように消費活動が抑えられることによって生じる、様々な不都合をどうするかです。いくら地球環境のために我慢は必要だと分かっていても、一部の人だけがそのしわ寄せを受けることは公平ではありません。

 我慢をするのであれば、世界中の人々が同じ量の我慢をするべき・・・、特に先進国は生活水準が高いだけに、その落差は大きく、先進国の代表者は自国の国民に「我慢せよ」とは言えませんし、今の消費経済というシステムのままでは消費レベルを抑えることにより失業者が大量に発生することを意味しているので、自分で自分の首を絞めることはできないのです。

「政治」とは何か? 大辞林のよると

 1 主権者が、領土・人民を治めること。まつりごと。
 2 ある社会の対立利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用

 この「2」の「社会」という文字を「世界」にすると、政治とは「世界の対立や利害を調整して世界全体を統合するとともに、世界の意思決定を行い、これを実現する作用。」となります。

 これこそ、世界各国の代表者達が明確な答えを出せない理由であり、ムヒカ大統領が「これは政治問題です。」と言った真意だと思います。

 政治家の皆さん、今こそ自国のメリットだけに囚われず、地球というひとつの星のために妙案を出して頂くことを、毎日ごみを見ながら何となく考えている私に代わってお願い致します。

 

利根川 靖

監修

利根川 靖

株式会社利根川産業の二代目経営者。業界歴20年で東京都廃棄物の組合理事も兼任。
廃棄物業界を盛り上げようと地方の業者と連携。得意分野はITツールにて生産性を高めること。
これからの若い人材が業界で働きたくなる魅力づくりに奮闘中。

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